新宿2丁目 - 1980年代のゲイ・ディスコ 考

最近、1980年代の新宿2丁目について関心を持ってます。当ブログ管理人が2丁目のゲイバーに行ったのは89年頃、クラブデビューしたのは1990年代の前半なので、当時の様子は実際には知りません。ゲイショップのルミエールにはもう少し前に行っていますが、ゲイ雑誌やゲイAVを少し見て、直ぐに帰ってしまっていました。

そこで、いくつかの資料を手がかりに、1970年代後半〜80年代前半ころのゲイディスコの実像を探ってみたいと思います。ウィキペディアの「新宿二丁目」や「日本のゲイ文化・クラブカルチャー」、「日本における同性愛」などの記述と似ている?と思う方がいるかもしれません。当然です。自慢じゃないけど、ウィキのそれらの記事の大部分を書いたのはこの私ですので……。


一つ目の資料は、比留間久夫さんの新宿2丁目を舞台にした小説「YES・YES・YES」です。その中に「ピアノ」という章があり、1980年代前半頃(多分)の2丁目のゲイディスコが出てきます。少し引用すると、

「文化祭の模擬店のようなチャチな照明と安っぽい装飾…ここは発展場というところなんだろう」「カウンターや壁に寄りかかったり…ダンスエリアでひび割れた鏡に自分を映し、何かに憑かれたように踊りながらも…その目は何かに焦がれるように辺りを徘徊している」(少し不正確です)

とあります。1980年代前半以前の2丁目ディスコの様子が、かなりリアルに分かります。

2つ目の資料は「オトコノコのためのボーイフレンド:ゲイ・ハンドブック」(1986年刊・少年社)があります。ウィキペディアにも(僕が)書いておきましたが、それによると、1976年頃には2丁目からほど近い、新宿5丁目の靖国通りに面したQフラットビルに、美輪明宏さんと伊藤文学さんのそれぞれのゲイバーがオープンし、同じビルの地下には「ブラックボックス」というディスコがあったそうです。オープンは何年かは書かれてませんが、通常のディスコと違い入場料は男性のほうが安かったそうです。

その他、MAKO」とうゲイディスコも有名だったそうです。「MAKO」は小さいビルの3階にあった店で、若いゲイがこれほど多く集まった店は当時はなく、満員電車並の混雑を見せ、店内に入れない客は階段や路上をウロウロした、とあります。その後、隣のビルに移転して(元の店はスナックMAKOになった)MAKO2となり、盛況だったものの1985年5月、突然閉店したそうです。

3つ目の資料は、「別冊宝島124〜ボクが売春夫になった理由〜」(1990年刊)です。Kさんというストレートの男性が1985年に新宿2丁目の「カレッジの王様」という売専バーで働いていて、その時の体験談が書かれています。少し引用すると、

「2丁目の“S”という老舗ゲイディスコでは、天井に小さいミラーボールがついており、インディアンみたいな小太りのおっさん、トシちゃんみたいな美少年、ミック・ジャガーに似た男性、キリストみたいな外人、背の高いマッチョの店員…らが踊り狂っていた」といっています。


比留間さんの小説、Kさんの別冊宝島の体験談、ゲイハンドブックの記述で、1980年前後ころのゲイディスコの様子がよく分かります。

ここからは全く推測でしかありませんが、小さなビルの3皆にあった「MAKO」とは、多分、その後のビデオBOX「バックドロップ」(ルミエールの上)じゃないかと思ったら、バックドロップは4階なので違いました。因みに現在もMAKOは営業しており、マリンボーイがあったビルの横の「石川ビル」でお見合い喫茶になっています。ディスコMAKOは、そのビルの隣に移ったということはビックスビルの前の角のビルのことかも知れません。

比留間久夫さんの「YES・YES・YES」の「ピアノ」の章は特に好きな章で、売り専ボーイの少年ジュンと、客のみっちゃんという17才の少年とのやり取りに凄く引きこまれました。そこがどういう感じの店だったのか知りたいと思ったのが、80年代のゲイディスコに興味を持ったきっかけです。

比留間さんがその17歳の少年の客に指名されて行ったという、2丁目のゲイディスコは、ビデボーの「バックドロップ」(発展場の一つ)のような感じではなかったのかと、勝手に想像してます。

因みに、美輪さんの「クラブ巴里」と同じビルの地下にあったという「ブラックボックス」ですが、同じ名前のビデオBOXが2丁目の仲通り沿いにありました。これも推測でしかないですが、多分移転してきたのではないでしょうか。因みに発展場のブラックボックスはかなり前に閉店しました。

またゲイディスコやゲイバーについて、書いてみたいと思います。

↓手前が靖国通り、画面向かって右端がQフラットビル。ゲイディスコ「ブラックボックス」や美輪さんの「クラブ巴里」が入っていた。