「ジャックの談話室」を批判する ①/②/③=ゲイリブ考①日本にゲイ差別はない、は本当か?

「ジャックの談話室」を批判する ①
他人のブログを批判するのもどうかと思いますが、この女が男を演じるとき : ジャックの談話室が余りに事実誤認に基づく、滅茶苦茶なことを書いているので、以下に一つ一つ批判を加えたいと思います。

アメリカのゲイリブの影響で、ホモはホモとセックスするのが当然だとなった

違います。ゲイには性自認が男性的な人と、女性的な人に分かれます。両者は別の性といえるほど違うもので、生得的なものです。アメリカのゲイリブの影響で形成された社会的、後天的なものではありません。男性的でありたいゲイは、自ら望んで、自然に男性的であろうとしているのです。女性的なゲイは自然に女性的でありたいと思っています。

>ホモというのは基本的にはオンナなのです。

違います。自己を女性だと認識しているゲイもいるでしょうが、男性だと自認しているゲイもいます。私は後者です。オネエ言葉は使わないし、自分が使うことも生理的に受け付けません。彼氏なら少しは許せますが、目立つようなら正直萎えます。生理的にSEXはできなくなると思います。

ハードゲイを真似して笑わせるレイザーラモンHG自身ノンケだし

彼はある番組で、タイプの男性について真剣に言及していました。受け狙いではありません。彼が結婚したからとってストレートではありません。彼はバイセクシュアルです。

>かつてはノンケ男がホモの相手をしてくれた。新宿二丁目の売り専バーは80年代の終わりまで、ノンケのボーイしか雇わず、彼らがホモの客の相手をしていた

要するに金を介在させた「買春」ですよね。厳密には買春は犯罪だとご存知ないのかとも思うが、買春による性行為が真の「恋愛」といえるでしょうか。自分もボーイを指名したい衝動はあるけれど、人格の商品化に繋がりかねない買春は、やはり人権上問題が多いとも思います。

性を買わなければ、ストレート男とSEXできる機会など、今も昔もありませんでした。今でも売り専にはストレートのボーイは少なからずいるし、その気になれば彼らとできない訳ではありません。

>80年代まではゲイバーでもバイの男がけっこう出入りしていて、彼らは男とのセックスではタチ役しかやらないことから「純タチ」と呼ばれ

これも嘘です。今も多くのバイが2丁目のゲイバーや発展場を出入りしているし、バイにもオネエもいれば、受け身もいます。オネエの真島茂樹さん、ピーターさんはバイセクシャルです。異性愛男性にも、ペニスバンドを装着した女性から掘られることに快感を覚えるM男がいたり、数年前にメトロセクシャルと呼ばれた、エステやネイルサロンに通う、女性的な感性を持つ男性がいるのと同じことです。ゲイにもバイにもSとM、タチとネコの両方がいるのです。

精神分析学の創始者ユング(個人的には精神分析学は眉唾のオカルトに過ぎないと思ってますが)は、男性の中の女性性をアニマ、女性の中の男性性をアニムスと名づけましたが、男性性、女性性というのは、一人の人間がそのどちらかのみを持っているわけではなく、両方を備えているものです。

男性(=男性的)、女性(=女性的)というものではなく、また男女に単純に2分化できる訳ではないのと同じく、ゲイ=女だと単純化できるものではありません。ゲイの中にも男性的なゲイと女性的なゲイがいて、剰えそのどちらも、男性性と女性性の両方を持っているのです。どちらの傾向がより強いかは、個人差があり、一概に決めつけられません。

>出会い掲示板などに極端にデフォされた男言葉で自己紹介文を書く人がいる……

こういう人は極一部のそれもリピーターだと思います。ゲイ全体から見れば、多くのゲイは、自然体で振舞っています。自然体で男言葉で話したり、少し女性的(オネエ)であったり。前述のように、男性性が高いゲイと女性性が高いゲイがいて、私の感覚では、どちらかというと男性的なゲイが多い感じです。

一つ明確なのは、普段からオネエ言葉を使い、テレビに出てくるオネエ・タレントほど女性度が高いゲイは、少数派です。私が付き合ったゲイも、友達のゲイも、ほとんどはオネエではありませんでした。

ジャックの談話室 さんって、アメリカのゲイリブの影響でゲイが男らしくならなければいけなくなったとか、それにしても珍論を展開する人です。こういう無茶苦茶な発言が削除もされず、野放しにされているのがネットの怖いところですね。


2012年5月12日「ジャックの談話室」を批判する②


またまたここの管理人が「芭蕉とその弟子」の中で、頓珍漢なことをいっています。


芭蕉に男色趣味があったことをもって、
>彼を同性愛者というのは誤り・・・。
>当時の日本では男同士のSEXは特別なことではなく、
>殆どの男性が男色と女色の両方を楽しんでいた。
芭蕉に内縁の妻がいたことからも分かるように
>彼らは現在の同性愛者のように同性としかSEXできない
>種族ではなかった


というのです。酷いこじつけでしょ?男色趣味があったことは即ち、芭蕉は同性愛者だということです。当時の日本では衆道に代表されるように、男色に寛容な文化があったことは知られていますが、だからといって尺八やアナルSEXといった男色行為に及んでいたのは極一部の同性愛者か両性愛者たちです。芭蕉に内縁の妻がいたというなら、彼は両性愛者だった可能性があるということです。

それを「彼らは同性としかSEXできない種族ではなかった」と断じてしまうのは極めて強引です。彼らは、ではなく、芭蕉が、同性としかSEXできない種族ではなかった、即ち、両性愛者だったというのが正しいと言えます。同性にしか性的興味がない同性愛男性が、異性とSEXできるか考えてみれば分かります。できる訳ありません、楽しめるはずもありません。

同じように当時の80%〜95%(いつの時代もゲイとヘテロの比率はそう変わりません)を占めるマジョリティの異性愛男性も、同性とSEXを楽しめたはずがありません。ただし受け身に徹するなら、タチゲイにケツマン(アナル)を掘られたり、指マンでトコロテンさせられたりして快楽を得て、満足するノンケもいます。或いはフェラは当然のことながらポイントを知ってるゲイの方が上手いので、ゲイがした方が高い満足度を得られます。

けれどもそれは、男性に性欲を感じたり、恋愛感情を抱いているのではありません。純粋に物理的な刺激を受けて性的に興奮したり、ノンケ自らに内在する女性性の部分をくすぐられて満足しているだけです。ゲイがノンケ向け風俗に行って風俗嬢から手コキされても、風俗嬢に恋愛感情を持たないのと同じです。

性愛というのは生得的、先天的なものです。両性愛者(バイセクシュアル)は両方愛せますが、モノセクシュアルで異性愛者に生まれついた人は異性しか愛せないし、同性愛者に生まれついた人は同性しか愛せません。当たり前のことです。

私の推測では、「ジャックの談話室」の管理人は既婚の両性愛者だと思います。自分の経験や基準を絶対化し、自分が男女両方と交われるから当時もきっとそうだったのだろう、といっている気がしてなりません。それも極一部の自分に都合がいい文献を持ち出して自分の理論を補強するやり方はご都合主義にも程があります。

ゲイリブを目の敵にするのも、自分が結婚していて妻子がいるからでしょう。「ジャックの談話室」にとって同性愛とは「趣味」に過ぎないのです。だから一部の同性愛者が同性婚を認めよ!と主張することが面白くないのでしょう。俺らは趣味でやっているんだから、放っておいてくれ!となるのです。

しかし、もうこういう時代は終焉させたいものです。
オバマ大統領が、同性婚を容認し、選挙の争点にする姿勢を見せました。
日本では長らく同性愛が趣味の域を出られなかった不幸な歴史があります。
日本でも同性婚を実現させたいものです。



2012-04-05「ジャックの談話室」批判③ゲイリブ考①〜日本にゲイ差別はない、は本当か?〜

ゲイリブ について考えてみたいと思います。

いうまでもなくゲイリブとはゲイの解放を目指す運動です。しかしながらジャックの談話室など一部に、「ゲイ・リブは左翼運動だ」との誤解があるのが残念です。実際、ゲイ・リブ運動家は社民党系などの左翼が多くいるので、そういう誤解もむべなるかなという面はありますが、ゲイリブに賛成の私個人の政治信条は保守ですし、石原慎太郎憲法・安全保障観にも近いです。

しかし、それでもゲイリブには賛同します。ゲイリブの主張の多く、例えば、同性婚の容認、ゲイ差別の罰則を伴う法的禁止などには同意します。昔、男同士でホテルに入ろうとしたら断られたこともありますし、愛する男性と添い遂げたいと思っているので、特に同性婚は認められて欲しいと願っています。

■「日本は欧米と違い、ゲイ差別はない」は本当?
昔から「日本は欧米と違い、ゲイ差別はない」と主張するゲイの人がおり、今もそう主張する人、特に既婚の同性愛者やバイセクシュアルが多くいます。タレントのおすぎさんも繰り返しそういって来ました。

しかし芸能界などは別として、一般の社会ではどうでしょうか? 私は日本はゲイ差別は根強いと感じています。浅田彰さんは、「日本は男性が男性としてのアイデンティティを確立しておらず、男性同士が慣れ合う擬似同性愛社会であるため、同性愛者差別は、欧米より陰湿な形をとる」といってます。

その通りだと思います。因みに浅田さんはバイであることをカミングアウトしています。

■欧米でゲイ差別が激しい理由
欧米でゲイ差別が激しい理由は、「同性愛は罪」としたキリスト教の基盤や、自己主張の文化が背景にあります。彼らはキリスト教をベースにした社会に生きているため、ゲイに目覚めた時から罪悪感などに苦しめられます。ゲイであるとカムアウトすると周囲からバッシングも受けます。それでもゲイであることを隠さず主張し、戦って権利を勝ち取ろうとする傾向があるのです。米国の精神医学会の診断マニュアル「DSM」に、同性愛が異常性愛の一つとして分類されていた頃、ゲイの活動家が学会にまで乗り込み、異常性愛との記述を削除させた歴史があるほどです。つまり自己主張が強い分、ゲイへの風当たりや反発も強くなります。

■日本的息苦しさ
翻って日本はどうでしょうか?

ほとんどのゲイは、日常生活においては同性愛者であることをオープンにしていません。テレビなどメディアでは、1950年代には既に美輪明宏さんがスターになっていたし、最近は確かに「オネエ・タレント」の人気がありますが、それはあくまで遠いテレビの世界での出来事であり、視聴者の多くは、自分や自分の家族の問題として引きつけて考えてはいません。

マツコ・デラックスさんの言葉を借りれば、「オネエタレントが、分かりやすい異型として、女性に受け入れられている」に過ぎません。またお笑いブームの中で、彼らオネエ・タレントが「笑われているだけ」という見方もできます。

もし自分の家族や友人がゲイだったら、半狂乱になったり、俄然反対する人は少なくありません。某オネエ・タレントを取り上げたYAHOOニュースのコメント欄には、ストレートの男女による、おびただしい数の心ないコメントが書き込まれていました。もし、就活の履歴書に性的志向を書く欄があり、そこにゲイであると書いたら、不採用になる企業も少なくないでしょう。

■府中青年の家事件
1990年に動くゲイとレズビアンの会」が、東京都の宿泊施設の貸出を拒否され「府中青年の家裁判を起こしましたが、この時は単に貸出を拒否されただけではなく、宿舎内でのリーダー会の時に、他の団体のメンバーらから、「こいつらホモ」「またオカマがいた」とからかわれ、挙句の果ては、旧約聖書の一節を引用する形で、「男と寝るものは、必ず殺されなければならない」と罵られるなど、様々なハラスメントを受けているのです。

普段は日本社会でゲイは、「存在しないこと」になっているからゲイ差別がないように見えるのです。それが一旦社会に顕在化すれば、たちまち激しい差別やバッシングの対象になります。「日本にゲイ差別はない派」は、その現実を甘く見ています。

行政においても、法的にも、同性婚が認められていないばかりか、同性愛者政策もありません。同性愛者の存在を位置づける法律すら存在しません。同性愛者は存在しないこと、になっているのだから当然です。

繰り返しますが、ゲイリブと左右の政治イデオロギーとは無関係です。保守派にも私のようにゲイリブ派はいます。

こういう状況を変えるためには、「DSM」から同性愛は精神疾患との分類を削除させたように、やはり同性愛者が声を上げていかなければならないと思います。


↑今は更地の「府中青年の家」があった場所